事前学習を積み重ねてきた東日本大震災の現地学習が始まりました。
これまで総合学習の時間に研究してきた地震と津波の被害、そして私たちの日常の問題としての災害についての学びをさらに進めるために、修学旅行を通じて震災当時の被災地の状況について学習しました。
また、被災地沿岸には津波によって破壊された多数の建物が存在します。これらの建物は、震災の悲劇と人々の生活を目に見える形で伝える「震災遺構」と呼ばれます。しかし、震災から来年で10年になろうとしている被災地では復興のためにこれらの遺構が次々と解体され失われています。私たちは、ようやく議論が始まっていている地域さえもある「震災遺構」の意義と、それを残し維持していくことの難しさを知ることで、被災地の「いま」についても学びました。
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岩手県の田老の被害について見学し、防災ガイドの方から震災のお話を直接うかがうことができました。事前の調べ学習ではけっして学ぶことのできない当時の凄惨な状況と、被災された方々が今なお抱え続ける苦悩をお聞かせいただけました。私たちが日ごろ、続くと思い込んでいる未来への過信について、その不確かさを痛感しました。
また、被災地に震災前から家々があり人間の生活があったという当然の事実からは、そこにけっして戻ることのない日常があり、いまだ復興はなされていないということに改めて気づかされました。
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陸前高田の「東日本大震災津波伝承館」では“命を守り海と大地と共に生きる”をテーマとした展示物に、命を守るための行動には「きっかけ」があることを知りました。また、必ず再びやってくる災害に対して私たちに何ができるのかを問うことの大切さを学びました。
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南三陸町で「語り部による学びプログラム」に参加しました。プログラムの中では座学による研修と、実地の見学を行いました。
語り部の方々お一人ひとりの「言葉」は、たんに情報として理解するものとはまったく違う震災の現実と、今日この瞬間も続いている被災者の悩みに目を向けるきっかけになりました。また、語り部の方々の「言葉」 を、世代を越えてつないでいくことの意義について考えることができました。
「祈りの丘」では3年前の本校修学旅行にひき続いて、学校全体でおりあげた千羽鶴一対とお花をお供えできました。
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大津波で内陸に打ち上げられた大型船や破壊された建物は、各地で次々と撤去・解体されていました。津波のすさまじさを後世に伝える「震災遺構」が、被災地で次々に失われているのです。他に優先すべき復興がある、悲痛な体験を思い出してしまう、たとえ残すことを決定したとしても、多額の保存のための整備費、継続的な維持管理費が必要になるなどの理由からです。しかし一方で、人々の記憶にある悲劇は、取り壊され失われていく建物とともにあり、震災を忘れないために残すべきだとの声もありました。
保存か解体か、大きな議論になるなか国も支援の方針を打ち出し、再評価や施設の新設も見られます。国土交通省も「震災伝承ネットワーク協議会」、「3・11伝承ロード推進機構」も設立しています。しかし、「震災遺構」は「一自治体一施設」が原則であるため、公式の遺構認定は公共施設が優先されています。私たちが目にした民間の建物も「たろう観光ホテル」(岩手県宮古市)と高野会館(宮城県南三陸町)のみで、所有者が自費保存を決めているもの以外の民間の遺構は、その多くが取り壊しを懸念されています。また、国への申請期限が迫っていることと、被災地ではいまだに避難生活を続ける住民もみえ、十分な議論を進めることが難しい状況もありました。
震災遺構は、社会に対して悲劇と教訓を伝える場や慰霊の場という公共性と、残された被災者にとって大切な人との記憶とつながる場という私的な意味を持ち、私たちはその中で思い悩みながら葛藤を続ける被災地の人々の現状を知りました。また、震災遺構を被災地と外とをつなぐきっかけとして保存しようという動きも始まっていました。そのために、宮古市の担当者と住民は広島の原爆ドームを訪れ、ドーム保存の経緯も参考にされているそうです。こうした「震災遺構」は被災地のみではなく後世に対する意義があり、その議論は所有している自治体だけでなく私たちの社会全体に責任があると感じました。
見学した震災遺構・震災伝承施設
〇陸前高田市
奇跡の一本松 復元保存
旧陸前高田ユースホステル
旧道の駅高田松原(タピック45)
旧陸前高田市営定住促進住宅
〇南三陸町
南三陸町防災対策庁舎
南三陸町は解体する方針でしたが、議論の結果、2031年までは県の施設とすることが決定しています。
高野会館
〇宮古市
たろう観光ホテル
東日本大震災で高さ17メートルを超えるとも言われる津波の被害を受け、4階まで浸水、2階までは柱を残して流失したものの、倒壊はしませんでした。震災遺構として国費で支援することが決まり、保存に必要な工事を終えました。
旧防潮堤
明治三陸大津波(1896年)と三陸大津波(1933年)により壊滅的な被害を受けた田老地区では、昭和9年から昭和53年までの年月をかけ、長大な防潮堤が整備されました。総延長2,433メートル、高さ10メートルの二重防潮堤は「万里の長城」と呼ばれ防災のシンボルとなりましたが、東日本大震災による津波はこの防潮堤を超え、田老のまちに甚大な被害を及ぼしました。地盤沈下分を嵩上げして原形復旧され、津波の脅威を後世に伝えるために保存されるとともに、新たに整備が進む第一線提とあわせて今後も防災に活用されます。